當光寺前住職の法話
すべてのものは移りかわる
ある処で宮崎県出身の男性と会いました。名前を「遵一(じゅんいち)」という方でした。ご本人の説明では、祖父が付けてくれた名前ですが、人生の歩みの中でいつでも「頂点」に立たず一にしたがえ、頂点に登ったら次はくずれ落ちる道しかない・・。という意味です・・と。
その時思い浮かべたのは、京都東山にある浄土宗総本山の知恩院の大本堂の屋根の天辺に瓦が積んであるのでバスのガイドさんにたずねると「この本堂があまりにも立派に出来上がりましたので、鬼や魔物がやって来て壊すといけませんので、未だ完成していないんだよ・・と、瓦が積んであるんです」と聞きました。何年か経って日光の東照宮では陽明門の扉に彫刻柱が一本だけさかさまにはめ込まれているのを見付けました。案内のオジサンは「これは魔よけです」と栃木弁で答えてくれました。古来から日本の建物にはどこか一ヶ所未完の部分を設けて、まだ出来上がっていないのだと「未完の完」を表現したものだと思われます。
去る二月十五日はお釈迦さまの入滅の日ですが「すべてのものは移りかわる」が最後のお言葉として伝えられております。私達の生きる娑婆(しゃば=忍土)では三苦ありと説かれています。
①苦苦=病気や飢餓等で心身の苦しみをうける
②壊苦=自分が愛着しているものが壊れることによって受ける苦しみ
③行苦=あてにするものが次々と変化していく苦しみ
ともすると変わらざるものを求めて生きる私達が、移り変わってゆく事象に苦しむのであります。
いかがですか當光寺ご門徒の皆さん、お子さんやお孫さんに何を与え、何を残してやりたいとお考えですか。子・孫の一生の間にどのような事がおきても壊されることのないもの・・ご自分でゆっくり、深くお考え下さい。浄土真宗では、阿弥陀如来様が法蔵菩薩の時(因位)十方衆生がそれぞれ自分の業の道を自然に歩み、逃げることの出来ぬ苦しみに縛られている相をみて、必ず安堵させなければおかぬと考えぬいた上、四十八の願をおこして、その願いを成就するため想像もつかぬ永い間ご修行の上、その願いを成しとげられた願いの力が私達衆生を育て、抱き、究極はご自分の仏国土である「浄土」に生まれさせて悟りの身にしなければおかぬ、とはたらいて下さるのです。それを本願力回向と申します。その本願力は「今」はたらいていて下さるのですから、臨終でもなければ、命の終わった先の世でもありません。
すべてのものが移りかわってゆく現実に生きながら、時には苦しみ、時には泣き、時には腹をたてながらも、阿弥陀如来さまのお慈悲の中に強く、あたたかく抱かれているのです。
そのお慈悲のはたらきをいただきつつ、有難く、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と称名念仏させていただき、深くお礼を申したいと思います。(初出・當光寺々報27号)
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